夫に嘘をつかれていました。

夫が帰ってくるまで一眠りしようと、私は布団に横になっていた。熟睡するつもりはなく、携帯を片手に少しでも身体を休めればいいやと思っていたが、いつの間にかウトウトしていたようだ。
バタンッ
という扉の音で目が覚めた時には、既に30分近くが経過していた。

夫が帰ってきたのか。と思い、私はリビングに向かう。
しかし、リビングには誰もいなかった。私が寝る前に居た時の空気を、そのまま残しているかのようだった。
「今帰ってこなかった?」
気のせいだったのかな…それとも、実はトイレに隠れてるのかな?
そう思い、私は夫にメールを送った。
「今新宿だよー」
返信はすぐにあった。
なーんだ…。…………。
「あれ!なんか扉開いた音がした気がして起きたんだけど…幻聴か…」
返信する。
心のどこかで、もやもやとした不安が湧き上がるのを感じた。
本当にあの扉が開いた音は気のせいだったのか。やけにはっきりとした音が耳に残っている。
いつも、扉が開くと室内にも空気が流れ、リビングと寝室を隔てる扉も音を立てる。
その音さえ聞いたのに。
携帯から、メールの受信を告げる短いメロディが流れた。
「あれっ」
夫からの返信だった。
夫はどう思っているのだろうか。また寝ぼけているな…とでも思っているのだろうか。
そうなのかもしれない。
毎日聞いている扉が開く音の記憶を、眠りかけた私の脳が反芻しただけ。それが一番現実的な考えに思えた。
「うとうとしてる感じだったから寝ぼけてたのかなー」
私は気にしていない。ただ寝ぼけていただけなのだ。あれは夢だった。知らない何者かが扉を開けたなんて、そんな非現実的なことがあるわけがない。
自分に言い聞かせるように、私はメールを送った。
送信が完了するよりも早く、夫からのメールを受信した。

「帰りますよぃ」
…?
さっき、今新宿にいるというメールがあった。夫の会社は品川にある。もう会社を出ていることが伝わっていることは、夫もわかっているはずだった。
もしかしたら、新宿にいるとは言ったけど、会社を出るときに帰る旨を伝えていなかった…と思い、改めてメールをくれたのかも知れない。きっとそうだ…
「お疲れ様!」
とにかく、そう返そう。
私はあなたが帰ってきていることを知っているのに、どうして?
そう聞きたい気持ちがなかったわけではないが、それは帰ってきてから聞けばいい。
スマホにしたものの、まだ操作ミスが多い私は、あまり長いメールを打ちたいとも思えなかったし…。
しかし、私はここで小さな失敗をした。
「お疲れ様!」
というメールを送るつもりだった。
なのに、本文を打とうとして、誤って空のまま送信してしまったのだ。
後になって思えば、これがこの後のおかしな出来事の引き金となったのかも知れない。小さな失敗であるはずが、その時メールしか手段のなかった私と夫のコニュニケーションを、歪ませるに足り得る楔となっていたのだろう。
「お疲れ様!」
私は、間を置かずに、今度こそメールを送信した。
すぐに返信がきた。
「帰る ちかれたのう」
……?
何かがおかしい。私から送ったメールが夫に届くくらいの時間は経っている。
なぜまた同じようなメールを送ってきたのだろうか。
ずっと心の中に燻っていた不安が、グラグラと平常心を揺らがし始めた。
メールを返せずにいると、更に追い打ちをかけるように携帯が鳴る。
「あれっ」
それだけのメールだった。
完全に食い違っている。が、何が食い違っているのかがよくわからない。
夫に、私の何が伝わって、何が伝わっていないのか。
もしくは、私に、夫の何かが伝わっていないのか…。
「え!?」
それだけを私は返した。
正直な気持ちだった。いや、それ以外言いようがなかったという方が正しかったかもしれない。
本当によくわからなかった。
届くメールが、言い知れぬ不安を増大させていく…。
少しずつ、思考が”現実には起こり得ないはずのこと”へと傾き始めていることを、私は認めた。
夫からの返信を待つ。
帰ってくるには地下鉄に乗らなければいけないのだから、きっと
「かむちんからのメールちゃんと届いてなかった」
というようなメールが返ってくるはずだ。
私は返信を待つ。
今日はやけに暑い…いや、違う…額に滲んでいる汗は、明らかに緊張によるものだった。
一体どのくらい待ったのだろうか…きっと、実際は1、2分しか経っていなかったのだと思う。
携帯が鳴った。
私は恐る恐る携帯を手に取り、ロックを解除する。

「 電話通じない
  どこ     」

そう書かれたメールが、画面に表示されている。

すると、またメールが届く。
今度は、一言ですらない。たった一文字。
「も」
とだけ表示されていた。

違う。
違う…違う…
これは私が求めていた返信ではない…
心臓が早鐘を打っている。
おかしい…おかしい…
そんなはずはない…だって夫は私が家にいることを知っている。
私の携帯は、メールを受信した以外に鳴ってはいない。
電波が入っていないわけでもない。だってメールは届いているのだから。
私はすぐに夫に電話をかけた。
プーップーッという音の後に
「auお留守番サービスに接続します」
という非情な声が聞こえた。
繋がらない…電話通じない…どこ…
私は家にいるのに…夫はどこにいるのだろうか…なぜ電話が通じないのだろうか…
いや…
そうだ、地下鉄だ。
夫は地下鉄に乗っているのだ。それならば繋がらなくても仕方がないではないか。
取り乱し過ぎていた…。
深呼吸をして、心を落ち着ける。
地下鉄で、電話が通じないことがわかっていながらなぜ夫が電話をかけようとしたのかはわからない。
しかし、地下鉄であるということが、目を背けたい不都合な事実に、言い訳を与えてくれているような気がしていた。
しばらく時間をおき、そろそろ地下鉄を降りただろうかというタイミングで再度電話をかけた。
今度はすぐにauお留守番サービスに繋がってしまった。少しの発信音もなしに…。
まだ地下鉄に乗っているのだろうか…長すぎる…。
いくらなんでも、長すぎる。
メールのすれ違いも地下鉄のせいだとするのならば…30分近く乗っていることになる。
実際には、10分程度しか乗らない地下鉄に…。
夫はどこにいるのだろうか…。

心の中の不安が大きく膨れ上がった。
そうだ、この不安の始まりは、そう…聞こえるはずのない扉の音を聞いたことだった。
あの音を聞いたのは私だ。夫ではない。
私?私はどこにいるのだろうか。
ここは家なのだろうか。私はこの家で、正常な時間軸で過ごしているのだろうか。
扉の音を聞いた時、無意識に誰かが入ってきたと思ったが、なぜ出ていったと考えなかった?
出ていったのかも知れない…誰が?…私が…?。
私の中で、実感が消えた。
この家にいるという実感。正常な時間軸にいるという実感。生物として生きているという実感が。
私の正当性を説明する為の証拠が何もなかった。
なにせ、何もかもが勘違いなのかも知れないのだから…。

もう一度夫に電話をかけた。
これが最後だ。これで出なかったら、外に出てみよう…。
発信音が鳴っている。間違いなく、夫が待ちうたに設定しているチョモランマトマトの曲が流れている。
つながった…。
「もしもし!?」
私の声はよっぽど焦っているように聞こえたのだろう。
夫は電話の向こうで笑っていた。

めんどくさくなってきたので、三行でまとめよう。
夫が
怪奇現象を装って
私を脅かした

こういうことだったのだ。
メールがちぐはぐなのも演出。電話が通じないのもうそ。(そもそも電話をかけてもいない)
私からの電話がかけられなかったのは、あのタイミングで電話をしてくるだろうと思って電源を切っていたから…。
私は完全に騙されていたのだ。
ただ、扉の音についてだけ、夫は何も関与していなかった。
あれは…一体なんだったのか…。

あの日は、とても暑かった。
私は、窓という窓を全開にして寝ていた。
暑いというのは、何も私の部屋だけに限ったことではない、隣の部屋だって暑い。
おそらく、隣の部屋の住人も窓を開けていたのだろう。
お互い窓を開けていると、重い玄関のドアに限らず、トイレやお風呂の軽い扉の音さえ、臨場感たっぷりに聞こえてくるのだ。
あの時、きっと隣の部屋の住人が帰ってきたのだろう…。
鉄筋コンクリート造のマンションは熱がこもる。
窓を開けたまま出かけていたとしても不思議ではない。
無用心と思われるかも知れないが、それほど珍しいこととも思わない。

何もかも勘違いだった。
私の存在の話ではなく。
私の感じていた不安や恐怖が、全て勘違いから生まれたものだったのだ。
おそらく、私が空メールを送った時に、夫は私が少なからず取り乱してることに気付いたのかも知れない。

長くなってしまったが、これが昨日の夜私に起きたことの全貌だ。
思わせぶりに書いてしまったが、本当に、何もなかったのだ。
夫のいたずらが創りだした、私の頭の中の妄想の話だったのだ。