[#2字下げ]瑠璃の言葉は短夜の追想[#「瑠璃の言葉は短夜の追想」は大見出し]  友人が死んだ。彼の腹部を深々と貫いていたのは、鉄の塊。そう、つまり刃だった。  彼は彼自身が両掌で包み込んだ刃を、親の仇にでも突き立てるように、深々と憎々しげに、自らの腹に突き立てた。  介錯なんて要らない、見事な切腹だったという。  いや……介錯なんて元々存在しなかった。命じられた切腹では無かったのだから当たり前だ。彼は自ら腹を斬ることを選んだ。  なぜそんなことを選んだのか?  簡単な話じゃないか。罪悪感だ。  彼を殺したのは、刃よりも先に、罪の意識だ。  罪の意識に殺された魂が、肉体を道連れにした。それだけのことだ。  よくある話……よくある話じゃないか……。  僕と彼は、古くからの友人ではない。行商をしている僕が、この界隈に気まぐれに足を伸ばさなかったら、きっと生涯出会うことも無かっただろう。  彼は土佐かどこか、僕がまだ行ったことも無いような場所の武士だと言った。土佐藩士の彼と、しがない商人の僕。友人、になんて、普通だったらなれるはずもない。なのに、こうやって僕が回想する程に彼と親しくなったのは、単に彼の武士らしからぬ性分の賜物だったのかも知れない。  彼と出会った日は、二月《ふたつき》遡らない。ほんの数十日前。湿気と青臭い風が不快な初夏の日だった。 「行商! おい、行商さん!」  背後からの声。僕は念の為周囲を見渡す。思わず振り返って、僕の事じゃなかったら恥ずかしい。  僕以外の行商が一人も居ないことを確認した上で、僕は振り返った。 「お前さん以外どこに行商がいる?」  声の主はそう言って明るく笑った。僕も思わず苦笑する。 「何売ってるか見せてくれよ」  そう言って近付いてきた彼を、僕は失礼にならない程度に観察する。狭い月代の簡素な髷。袴に刀を佩いた出で立ちは間違いなく武士だ。僕は心の底でほくそ笑んだ。  というのも、気まぐれでこの界隈へ……と云えど全くアテがなかったわけではない。藩邸の周辺へ行け、とはよく仲間内で言われていたことだ。ここは土佐藩邸からそう遠くない。僕がアテにしていたのは、金払いの良い武士だった。 「これなんて武家の方にはもってこいの――」  僕がお決まりの売り口上を次々と捲し立てる中、彼は興味があるのか無いのかよくわからないような相槌を打ちながら、並べられる商品に目を向けていた。  冷やかしか……と思わないでも無かった。行商の売っている物を芸人の芸かのように眺めるだけで楽しんでくれる、有難くないお客様[#「お客様」に傍点]に出会うことも少なくはない。  しかし、彼の放った言葉に、僕は正直ここ最近で一番腰を抜かしそうになったかも知れない。 「全部くれ」  彼は特に表情を変えるでもなくそう言った。 「ぜ……全部……※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」  恥ずかしながら、僕は本心から驚いてしまっていた。他になんと言えば良かったのだろうか?いや、言い様なんて無かった。  勿論僕は商品を多く売ることが仕事だ。それにしても、だ。  いくら金払いの良い武士とは言え、ろくに吟味もすること無く商品を全て買おうだなんて、僕の知っている常識を遥かに逸脱していた。 「全部と言ったら全部だ。安心してくれ、金は持ってる」  彼はそう言って少し自慢気に笑うと有り金全てをを差し出した。僕は自分の商品と彼の差し出す金を見比べる。……問題なく足りている。  武士の金払いなど見栄の恩恵かと思っていた節もあるが、彼は確かに金を持っていた。 「必要な分取ってくれよ」  そうは言うけれど……。  武士の稼ぎなんて如何程のものだろうか?僕にはよくわからないけれど、余程のお偉いさんでも無い限り、行商の商品を買い占めるなんて道楽が出来るとも思えなかった。  内職でもして、懸命に貯めた金だろうか。何か自棄になって、それをあぶく銭のように吐き出してしまうつもりなのだろうか。  そんなことを考えてしまう僕は、行商なんて生き方に向いていないのかも知れない。貰える金は貰えばいい。そう思えれば、この仕事も楽しいのかも知れない。  でも、それは僕の考える生き方とは少し異なっていた。  僕は少し少なめに代金を頂く。 「こんなもんか?」  と言う彼に曖昧な笑みを向け、 「沢山買って頂いたので……こんなもんでも利益がでるんですよ」  そう返した。  ふーん……と、彼はまた興味があるのか無いのかわからないような相槌を打つ。 「お前、まだ暫くこの辺りで商売するのか?」  彼はそう言った。 「ええ、そのつもりではいますが……」 「そうか……えっと……なんて呼べばいいかな」  お客様から名前を聞かれる機会なんてそう無い。  戸惑った。僕が答えるまでの間、彼は少し苛立ちを覚えていたかも知れない。それくらい僕は躊躇した。  その頃僕は、よくキヨ≠ニ呼ばれていた。別に僕は見た目特にが女性らしいというわけでもないし、本当の名前でもない。敢えてそう呼ばれる理由があるとしたら、授けられた名前が清司郎《せいしろう》≠セったことと、なんとなく物言いや立ち振舞に男らしさが感じられない、と言ったような、ぼんやりとしたものだろう。  でもとにかく、この頃はそんな風に呼ばれることが多かった。 「キヨ≠ニよく呼ばれています」  そう僕が言うと、彼はなんの遠慮もなく笑い 「女みたいな名前だな」  と言った。  そんなことは百も承知だし、よく言われることなのに、僕は少し苦々しく思い 「名前は清司郎≠ナす」  と腹立ち紛れに答えてしまった。彼は笑いを収めようとはしなかった。 「なるほど、せいしろう≠フせい≠フ字が清≠ゥ」  と言いながら彼は僕が広げた商品……今や彼の持ち物をまとめていた。 「そんなになよなよした印象はないのにな。名付け親って奴は時に残酷だ」  別に……僕がキヨ≠ニ呼ばれるのは清≠フ字だけのせいではないと思うけど……ふとそんなことを言う彼の名が気になった。 「また会ったらいいもん売ってくれよ、キヨ」  そう言う彼に、僕は少し意地悪っぽく 「僕はなんとお呼びすればいいでしょうか?」  と言った。  彼は少し悩むように眉根を寄せたが、観念して口の端を少し上げると 「麻岡彦一《あさおかげんいち》だ。呼び方は好きにしてくれ」 「麻岡さん、ですね」  僕は内心がっかりした。僕の名を笑った彼の名を笑ってやろうと思っていたのに。なんだ案外普通じゃないか。 「よろしくな」  そう笑顔を向けた後彼は背を向けた。僕はその背をぼんやりと見送る。  その背は立派なお侍様そのもので、僕みたいな行商に興味を持つような人には見えなかった。 「麻岡彦一……」  僕はなんとなくその名前を反芻する。変わった人だ。武士は武士。皆それなりに自尊心というものがあって、商人風情には親しい口を効いたりしないものなのに。  幾分か偏見が含まれていると言えないこともないが、あながち誤った認識でも無いだろう。  この辺りで商売をしていれば、また会うこともあるだろうか。  決して、また買い占めて貰おうというつもりではないが、僕は彼自身に興味を惹かれていた。また会いたいものだ。  一介の行商が望むような事ではないのだけれど、僕の中には少し確信じみたものがあった。  彼とはまた会える。会えば、友人と再会でもしたかのように彼は話すだろう。  長年多くの人を観察してきた僕だからこその勘だ。それなりに自信がある。  商品は全て売れてしまったし、僕も今日は店じまいだ。踵を返した時、調度良く半鐘が鳴る。  まだ昼時。こんなに早く仕事を終えてしまう日もなかなかない。余暇をどう過ごそうかなどと考えながら歩き出す。  急いで商品を仕入れて商いに戻る……というのも一つの手ではあったけれど、今日はそんな気分にはなれない。  心の奥底を柔らかな筆でくすぐられているような気分に、僕はふっと息を吐くように笑った。  それから数日は、彼に会うこともなくいつも通り平々凡々とした行商の生活をしていた。  やはり藩邸近くは金払いが良い。金払いの良い武士達は、僕にとって良いお客様だった。商いが上手いとは言えない僕ですら、持て余した金をちょっとした夜遊びに回せるくらいの稼ぎになる。  しかし彼らはただのお客様だ。武士たちにとっても、僕はたまたま通りがかった行商に過ぎない。お互いになんの興味も持つことがない、ありふれたお客様と商人の関係、それ以上でもそれ以下でもない。  勿論、僕に名前を問う者なんて一人もいない。  そんな平素の生活に、僕は飽きてしまっていた。満たされない思い、とでも言うのだろうか。いや、満たされなければいけないという強迫観念に近い焦燥が、くすぐられた心の奥に沈殿して居座っていた。  僕は何を望んでいるのだろうか。ふとそう考えて、馬鹿らしくなって頭を振った。わかりきったことじゃないか。  僕が望んでいることはただ一つ。麻岡彦一にもう一度会うことだ。  彼にもう一度会って、話がしたい。別にこれといって話したい事柄があるわけではないが、僕に興味を持った麻岡彦一はきっと僕が望んでいる話をしてくれるはずだ。  これもまた、確信に近い勘から導かれる期待だった。  また数日。僕と麻岡彦一が初めて会ってから、何日くらい経った時だったろうか。正確には覚えていないが、恐らく十日かそこらは過ぎた頃のことだった。  その日の僕は、前日の深酒が祟って酷い頭痛を抱えていたし、いやに熱を持った湿気が肌にまとわりつくようで気分が悪く、早々に一仕事終えて退散したい気持ちでいた。  これは僕の仕事の勘ではなく、人生経験上よくあるといった類の話なのだが、期待していることというのは大抵こんな気分の日に成就してしまうものだ。  麻岡彦一に会いたいという気持ちは勿論あったが、今日ばかりはそれよりも早く帰りたい気持ちが優っていたのだけど。神様なのか仏様なのかわからないが、そういう切実な希望を打ち砕くことにだけは手を抜かない。 「キヨ!」  呼びかけられてすぐに振り返った僕は、喜びよりもうんざりとした色を顔に浮かべていたかも知れない。 「儲かってるか?」  と言う麻岡彦一に、僕はえーと……と少し考えこむ振りをした。我ながら餓鬼臭いことだとは思う。今じゃなくとも良いのにという神だか仏だかに向けるべき苛立ちを、目の前に居た麻岡彦一に向けてしまっていた。 「もう忘れられたのか……?」  そう言う彼に 「なかなか商品を買い占めてくれる人が居なくて困ってますよ」  と答えると、彼はなんだ覚えてたかと言って笑う。 「あんな思い切った買い物をする人、初めて見ましたから」 「まあ……わけがあったんだよ」  と彼はばつが悪そうに頭を掻くと、まあそれは良いとして……とはぐらかすように話を変えた。 「この前売ってもらった薬、あれよく効くな」 「怪我でもされたんですか?」  あまり怪我をしているようには見えなかった。とは言え社交辞令で聞いたわけではない。  この辺りで刃傷沙汰があったという話は聞かないが、だからこそ僕は僕の売った薬の使い道が気になった。  まだ噂になっていない騒動があったのかも知れない。僕が仕事場に選んだ界隈でそんなことが起きているのだとしたら、僕としては知っておかないわけにはいかない。  しかし、彼の言葉は僕の想像とはだいぶかけ離れていた。 「女、なんだけどな」 「……女?」  彼は、少し言いづらそうに、話し始めた。  途切れがちに、どことなく気恥ずかしげに話したその話は、大体このような感じだった。  麻岡彦一は、島原に想い人が居る。  一人前になったばかりの若い娘で、周囲からは余り器量が良くないと言われているが、麻岡彦一にとってみたら、この世界に存在するどんな女よりも美しい女だそうだ。  彼は、本業の傍ら内職に精を出し、彼女を身請しようと金を貯めていた。つまり、買い占めが出来るほどの財力は、その努力の賜物だったというわけだ。  しかし、身請なんてそう簡単に出来るものではない。そんなに易く出来るようなものならば、遊女はもっと希少な存在になっていただろう。  彼がなかなか彼女を身請できずにいる時、別の男が彼女に身請を持ちかけた。彼の懐には、その場で彼女を身請できるような金があった。  麻岡彦一はその男の素性を知らなかったが、どうやらこの辺りでは名の知れた豪商らしい。  彼は、彼女を妾にしたいと話を持ちかけたが、彼女は『既にそういう話を持ちかけてくれている人がいます。私は、その方と共に生きたいと思っています』そう答えた。  まあそれは、彼女を愛する麻岡彦一がいくらか都合よく解釈しているのかもしれないが……とにかく、彼女はその豪商の申し入れを断った。  豪商は激怒した。金を払って自由の身にしてやろうと言うのに、それを断るのは何事か! ……そんなところだろう。  僕が言うのもおかしな話かも知れないけれど、商人、特に金儲けが上手な商人というのは、そうやって金の力を過信するきらいがある。  激怒した豪商は、彼女に手を上げた。刀を持たず、金に魅入られた商人が、結局のところ暴力に頼るというのも皮肉な話だが、言ってしまえば、唯一信頼し得る金が頼りにならばければ、本能的に暴力に頼らざるを得ないということだ。  僕はそこまで厭世的な思想を持っているわけではないが、まあ人間なんてそんなものだ、というような諦めを抱いてはいた。  彼女は、怪我を負って暫くは店に立つこともままならなくなっていた。  普通なら、こんなこと周囲にも噂として広まっていてもおかしくないのだけど、相手は思い付きで身請できる程金を持った上客だ。店も豪商を庇うかのように、この出来事を陰にひっそりと隠した。  彼女は店に立たないし、店もそのことを隠している。麻岡彦一がそのことを知る術は無かったはずだが……  彼は、店の外で彼女と逢瀬を繰り返していた。彼女もそれに喜んで応じていた。  豪商の申し入れを断ってでも彼に身請されたいと言うのは、どうやら彼女自身の本音だったらしい。  彼女は疲れた顔で麻岡彦一にその話をした。  憐れんで欲しかったのか、お前が早く身請しないからだと責め立てたかったのか。僕にはそのような邪推しかできなかったが、彼にとってはそうではなかった。  いつも明るい顔をしていた彼女が、そんな疲れた顔をしていることが耐えられない。  彼女の顔には無残にも大きな痣があった。芸妓として、それ程不名誉な傷も無いだろう。せめて傷だけでも治してやることができたら……。  そんな思いで、あの日僕を呼び止めるに至ったらしい。 「なら薬だけ買えば良かったじゃないですか……」  僕はやや呆れた口調でそう言った。  彼女を身請する為に貯めた金だと言うのに、身請する前に無駄遣いする必要なんて無かっただろうに。 「まだまだ貯まりそうにも無かったし……面白いもんでも見せて元気付けてやりたかったんだ」  彼はそう笑った。別段後悔している様子もない。  あの商品の中に面白い物があったかどうかは甚だ疑問だが……すぐに身請できない以上、今元気の無い彼女をすぐに元気付けてやろうと思う気持ちはわからないでもなかった。  まあ本人が良いと思っているのならば僕が口出しすることもない。ただ、身請が先延ばしになればまた同じような危険に見舞われる可能性も高まるのでは無いかと思うと、他人ごとながら落ち着かない気持ちもあった。 「あの薬、今日もあるかな?」  と彼は言う。 「傷の治りが良くて思ったより早く店に立てたけど、まだ痛むらしいんだ」  持っていない。僕は一瞬答えるのに躊躇った。  躊躇ったところで薬が無いという事実に変わりはないのだが。 「すみません、今日は持ってきていないんですよ」  そう答えるしか無かった。あの薬は、仕入れるのにちょっとした危険を伴う。  前に仕入れた時にもう少し余分に仕入れておけば良かったなと思ったけれど、今となっては後の祭りだ。 「そうか、残念だ」  と言った後、彼は思い立ったようにキヨ、と言う。 「この後なんの予定も無いならちょっと付き合わないか?」  僕としては……昨日の酒が抜け切らない中彼の誘いに気乗りはしなかったが、せっかく会えたのだから話をしたいという欲求を満たしたくもあった。  奢るから。という彼の言葉に、僕も結構持ってるんですよ。と答えて、僕は欲求に従って彼の後を追った。  彼が話したいことなんて、きっとその彼女の事だろう。僕がそういう話を聞きたいのかと言えば少し違うのだけれど、そういった話の中にも、僕が興味を持つような話もあるかも知れない。  それに期待することにした。  その後僕が解放されたのは明け方近くだった。  もういい、明日……いや、今日は仕事なんてしないで寝て過ごそう。僕は小さくため息を吐いた。  彼はやはり彼女の話をした。優しい子だとか、瑠璃色の着物を着ている時が一番似合っているだとか、三味線の腕は島原一だとか、要するに彼女がどれだけ素晴らしい女性かということを僕に教えてくれた。  そんなことを聞いても、僕は曖昧に微笑んで頷くことしかできないけれど、彼はお構いなしだ。  本当に嬉しそうに、時にこそばゆそうに笑いながら彼女の話をした。  怪我をした、なんて話題じゃなければ、彼女の話をしている時は常に笑っていたんじゃないだろうか。  目尻を下げて、頬を緩ませて。僕は長らく、そんな笑顔を見たことがなかった。  今勤皇か佐幕かと世の中に不穏な空気が渦巻いているというのに、当事者であるはずの彼はそのようなこと意にも介さない様子で、平和な顔をして笑っていた。  身請の為の金を一年で貯めると彼は意気込んでいた。  けれど、人生に於いての一年は短くとも、動乱の世の一年は長い。時間的な長さではない。多くの事が変わってしまうかも知れない、という意味だ。  彼が懸命に貯めた金の価値だって、今と変わりないという保証はない。  でも、そんなことを考えて躊躇していたのでは、愛する女性と一緒になることだってままならない。彼はそれをわかって、敢えて多くのことに目を瞑り彼女だけを見ているのかも知れない。  僕は、少しだけ彼のことが羨ましくなった。僕は彼とは正反対だ。より多くのことに目を見開いて、より多くのことを知りたいと願っている。それが僕の生き方だ。  勿論、自分が望んだ生き方だ。不満があるわけじゃない。ただ、彼のような盲目的一途さも、生き方の一つの例として憧れた。  僕が十個の事柄について一ずつ知る間に、彼はきっと彼女のことを十以上知るだろう。  僕にはそこまで一途になれる程の何か≠ネんて無かった。  僕と麻岡彦一は、それからも頻繁に会っては話をした。  初めて会った日からの十日程は、彼女のこともあり余り出歩いて居なかったそうだが、基本的にはこの辺りをいつもぶらついているらしい。 「暇なんですか?」  と僕が意地悪っぽく聞くと、彼はニヤリと 「副業も兼ねてるんだ」  と答えた。  そう言えば、彼の副業に関しては終ぞ聞くことが無かった。  僕が興味を持たなかったということもあるかも知れないが、彼自身あまり話したがらなかったように思う。  まあ、武士の副業なんて黙認されているだけのもので、公に言って回るようなものではない。当然といえば当然だったのかも知れない。  僕たちは、いつも他愛のない話をしていた。  彼がする話は相変わらず彼女のことが多かったが、その他にも藩や同僚の愚痴など、凡そ武士らしからぬ話題ばかりだった。  別に武士たるもの不平不満を漏らすべからずと厳しいことを言うつもりではないが、話す相手が問題だ。行商相手にそんなことを話す武士なんて、見たことも聞いたこともない。  正直、そこまで話してしまっていいのだろうかと思うような話も多くあった。僕に気を許しているからだろうが、藩の内情なんて外に漏らして良いわけがない。  殊に危ない橋の上にいる土佐藩だ。何かあれば、情報を漏らした麻岡彦一だけでなく、情報を知ってしまった僕だって怖い目に遭うことになるんだろうな。僕は少し周囲に警戒しながら話を聞いていた。  彼はと言えば、警戒する様子なんて一切無い。  それもそうだ。彼にしてみれば、友人に仕事の愚痴を話しているだけのこと。そんな事態になる、なんて考えてもいないんだろう。  なんというか……一途なのは良いが、視野が狭すぎる。  ただ、僕はそういった話に興味があったから、危険を承知の上で、敢えて諫めるようなことはしなかった。  数十日の間に彼から多くの話を聞いた。  自分で言うのもなんだけど、僕は聞き上手な質だ。  彼が警戒せず僕に色々な話をしたのも、それが要因の一つだったのかも知れない。  しかし、逆に僕は多くを話さなかった。  それについて何か気にしている様子はなかったが、彼は僕のことをほとんど何も知らない。名前と、行商だということ。それと顔くらいなものだろう。  僕から話さなければ、無理に聞き出すようなこともしなかった。  もし、彼ともう少し長い付き合いになっていたら、僕は自分のことを話しただろうか?彼は、僕の素性に興味を持っただろうか。  彼は、どういった理由でか僕に興味を抱いたわりに、僕のことを詮索するようなことはしなかった。  結局のところ、数十日の付き合いの中では、僕が一方的に彼のことを知っただけだったけれど。もう少し長く時間を共にしたら、その関係性は変化していただろうか。  今となってはそんなことを考えるのも、単に故人を悼んでいるだけのことだ。もう関係性が変化することなんてない。  彼が死んだのは、今から十日前。僕がそれを知ったのは、四日前のことだった。 「綺麗な瑠璃の玉のついた髪飾りが売ってたんだ」  彼と最後に会った日、彼は嬉しそうに笑いながらそう言っていた。相変わらずの平和な笑顔。 「安物だけどさ。金が貯まったら、身請する時に一緒に渡そうと思う」 「良いじゃないですか。前に、瑠璃色が似合うって言ってましたもんね」  僕もそう言って笑った。よく覚えてんなあと言って彼は少し気恥ずかしそうに頭を掻く。 「今日はどうします?」  と僕が言うと、彼は嬉しそうに、でも申し訳なさそうに 「今日は彼女の所へ行ってくるよ」  と答えた。  確かに、ここのところ連日二人で飲みに行ってしまうことが多くて、あまり店に行っていなかったようだった。  髪飾りのこともあるし、きっと彼女に会いたいんだろう。僕はそうですかと言って頷いた。 「明日あたりまた行こうぜ」  そう言って背を向けた彼の姿が、僕が最後に見た彼の姿だった。  明日辺り……と言っていたのに、それから数日僕の前に麻岡彦一は姿を見せなかった。  僕は、胸の奥にふつふつと、泡が浮くように不安が浮かび上がってきているのを感じていた。嫌な予感、というやつだ。  それが、僕の気持ちを支配し始めていた。 「麻岡さん……ってお侍さん、最近めっきり見ませんね」  僕の商品を手にとって眺めていた武士に、僕は努めて自然に尋ねた。  武士は一瞬頭の上に疑問符を浮かべていたが、すぐに思い当たったように、ああ。と声をあげた。 「死んだんだよ、あいつ」  その言葉を、僕はすぐには受け入れられなかった。  言葉を返すことが出来ずに呆然と黙り込んでいる僕に、武士は残酷にも言葉を続けた。 「あいつ、島原に入れ込んでる女が居たんだけどな、その女に乱暴してる金持ちを、バッサリやっちまったんだよ」 「いつですか……それ……」  僕の声は、驚愕と絶望で明らかに震えていた。  武士は顎に手を当て少し考えるような素振りを見せると 「うーん……死ぬ数日前だよ。死んだのは六日前だ」 と答えた。  あの日……きっとあの日だ。  僕が彼に最後に会った日、彼女の元に行った彼は件の豪商と鉢合わせしたんだろう。もしかしたら、彼女に手を上げたところに居合わせてしまったのかも知れない。  帯刀していたにしても程温厚な彼が、人を斬るにはそれだけの強い理由があったはずだ。 「彼はなぜ死んだんです」  そんな僕の言葉を待っていたように、武士は満足気に頷くと自刃だよと答えた。 「殺された金持ちの弟とか言う奴が、ならず者集めて復讐しようとしてな。夜更けにあいつと藩の奴数人が襲われた。それで……あいつ一人が生き延びちまったんだ」  武士の話し様は、噂話を楽しむような下世話さを帯びていて、僕は少しずつ苛立ちを覚え始めていた。  事実なのかも知れないが、彼の死という事実をそんな下世話な話の種にして欲しくはない。  武士は続けた。 「そのことがあった次の日かな。藩邸に呼び出されたのにあいつは来なかった。様子を見に行った下の者が、自分で腹を切って死んでるあいつを見つけたんだ」  目眩がした。あの日、髪飾りを送ると笑っていた彼が。彼女を身請すると意気込んでいた彼が。そんな些細なことで自ら命を断つだなんて、僕には信じられなかった。  いや、僕にとっては些細なことに思えても、彼にとってはそうでは無かったのだろう。  もし、豪商が彼女に手を上げたところに居合わせて、彼女を守る為に斬ったのだとしたら。彼は、彼女の目の前で人を斬ったことになる。彼女の目の前で人を斬り、それが原因で仲間を死なせた。それは、彼にとっては死に値する罪悪の根源だったのかも知れない。  麻岡彦一に身請されるのを待っていた彼女は、一人取り残されて何を思っているのだろうか。  愛する人が、自分を置いて自ら死を選んだことを、恨みはしないのだろうか。  考えたところで僕にはわからないし、もはや関係の無いことではあるのだけれど。どうしても心の片隅に、会ったこともない彼女の影がちらついて離れなかった。  茶屋の店先に座り、僕は人を待っていた。  麻岡彦一が居なくなってから時間を持て余していた僕は、約束の時間より随分早くここへ来て、もう居ない友人について思いを馳せていた。  約束の時間をわずかに過ぎた頃、僕と同じ行商風の格好をした同業者≠ェ、僕の後ろに座った。 「近頃質が落ちてるって、言われてますよ」  同業者≠ヘ、僕の方を見るでもなく、ぼそぼそと呟くようにそう言った。 「友人≠ェ死んだんだよ」 「麻岡彦一。二百石の旗本麻岡領一郎の次男。京には昨年から来ていたみたいですね」 「よく調べたな……」 「山崎さんが調べろと言ったんでしょう」  僕は溜息を吐いた。  それに気付いた同業者≠ヘあっと小さく声を上げると 「キヨさん、でしたね」  と言う。わざとじゃないのか……内心僕はもう一度嘆息した。 「買収した遊女並に有益な情報を持って帰って来い、だそうですけど」  同業者≠フ言葉に、僕はそうは言っても……と言いかけて言葉を途中で切った。 「もう少し時間をくれ」 「勿論です。麻岡のような情報提供者がそうそう居るとも思えませんし。それは上の方々も承知の上ですよ」  そう言って同業者≠ヘ立ち上がった。 「では、引き続きお願いしますね」  僕は答えるでも頷くでもなく、なんとなくぼんやりとその言葉を聞き流した。  ぼんやりと座ったまま、僕は彼の笑顔を思い出していた。  あんなふやけた笑い方を、僕はしたことがあっただろうか。  仕事柄、僕は色々な顔をしてきたつもりだけれど、あんな表情が自分に出来るとは到底思えなかった。  僕の周囲の親しい人達を思い浮かべてみても、彼のように笑う人なんて思い付かない。  彼は、刀なんて持つべき人ではなかったのだと思う。武士の家に生まれついたばかりに刀を手にしてしまったのが、彼の不幸だったんだ。  刀を持つのは、あんな風に笑うことが出来ない、僕達だけで良い。僕達には、少しの罪悪を振り払えるような大義≠ニいう言い訳がある。  彼のような生き方を失ってしまった代わりに、それが僕達に刀という強さを与えてくれた。  情報提供者を失った損失。確かにそれは僕の心に一つの影を落とした。  しかし、それ以上に僕の心を暗く湿ったものにしているのは、麻岡彦一の死そのものだった。  動乱のこの世の中で、あんなにも人間らしい弱さで死んだ武士を、僕は他に知らない。  彼は敵対勢力の人間ではあったが、僕の中では、憧れに似た友情のようなものが芽生えていた。  立場が違えば、僕たちは本当の意味での友人になり得たのかも知れない。そうなれば、僕もいつかはあんな笑い方が出来るようになっただろうか。  自嘲気味に笑って僕は頭を振った。僕は自ら望んで刀を手にしたんだ。今更なんでそんなことを望めるだろう。  僕は立ち上がるとお金を置いて歩き出した。  同業者≠ヘ屯所に戻った頃だろうか。僕は同業者≠ニは逆の方向へ足を向ける。  僕の仕事はまだ終わっていない。  友人の死という予想外の出来事でやりづらくはなってしまったが、任務を果たさなければならない。  ふと露店に目をやると、瑠璃の玉のついた髪飾りが目に入った。  日の光を浴びて、玉は水のように光っていた。  ふっと息を吐くように笑うと、僕はその髪飾りを手にとった。 「贈り物ですか?」  と問いかける店主に、僕は無言で頷いた。金を払い、手で髪飾りを弄びながら往来を歩く。  何やってんだろうなぁ、僕は……。  そんなことを思いながら、僕はいつもの仕事場へ向けて、ただただ歩いた。